「閃光のハサウェイ」所感

 「閃光のハサウェイ」を観た。美しかった。市街戦の恐怖をあの様にリアルに描いた作品は珍しい。テロリストが主役の話であるからこそ、犠牲者の発生を結局は容認するハサウェイの姿がはっきり浮かび上がる。

 「不正に暴力で応じる事は正しいのか」というのは本作品のテーマの一つであるが、容易に答えることはできない問題であるから観客はハサウェイと一緒に迷うことになる。このような問題を提起できるところに富野氏の洞察の深さがあるのではないだろうか。同じ世代のアニメ作家である宮崎駿には「「自然」や「平和」といった「スゴくて正しい」もので物事を裁く自分はかっこいい」という空気を感じてしまう自分には特に良い作品だった。未来に残るのはジブリじゃなくてガンダムなのかもしれない。

「【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派 (新潮選書) 」書評

 #シーア派スンニ派 書評

 

 本書が冒頭で某世代の反米英的な切り取り方を「気持ちがいい」程度の次元と捨てるのはやはり驚く。「知識人≒左翼」であった時代は完全に終わった。他方で欧米はどうか。筆者ははっきりとは言わないが、専門書は出ない、新聞は勧善懲悪的な上記の類となれば日本の周回遅れである。
しかし本書の主旨は中東が宗派のみならずもっと細かく分断されているという主張である。
「斑状の秩序」というのは要するに中世的な「社会の集合である社会」である。各地の集団が仁義なき合従連衡を繰り返す。
千年後の人が見れば「オスマンの後釜の欧米が消え、宗教も巨大な紐帯を生み出せず基層が表面に出た」とでも言うのであろうか。
考えてみればオスマンイスラム帝国?)の区分け式統治の当然の帰結かもしれない。翻って日本や欧米はどうであろうか。欧州では中世的な分断が回帰し、米国は凋落する。米国が弱体化するなかで動く中国の未来はどうであれそれに日本は影響を受けざるを得ない。本書は米国の下降に伴う当然の結末の一面を描く価値有る力作である。時代の扉が今開かれた。

リチャード・ストールマンが引退しそうな今、自由ソフトウェア運動の理想を振り返る

最近ではスマートフォンがとても普及しているが、特に便利なのはスマートフォンのアプリの多くが無料で手に入るということである。アプリといえば、パソコンでも無料で手に入るソフトがあった。フリーソフトウェアというものであった。しかしどうしてそうしたアプリとかフリーソフトは無償なのだろう。実際の所、私たちはそうしたアプリとかに依存しているのだから有料にすることは出来るだろうし、無料にしても得は無さそうである。そして今回はこうしたフリーソフトが普及した理由は、著作権を嫌うプログラマー文化にあり、そして彼らの活動からどのようなことが著作権全体に言えるか、というレポートを書く。

 まずこうしたフリーソフトウェア運動はリチャード・ストールマンRichard Matthew Stallman)という人物が立ち上げたGNUプロジェクト及びコピーレフト(コピーライトの反対)というものがその起源ないし中心となっている。そのため彼の著作権に対する思想をまず説明する。まず現在一般に流布している「著作権」とは次のものだ。

 

1.  著作権とは権利である。

 著作者は自らの作品に対して幾らかの権利を持っている。具体的には不正な方法で頒布をされない権利や著作権料を受け取る権利などがある。

2.  著作権は近代になってから問題になったものである。

 特に日本では現代の典型的な法律問題として著作権があるとか、最近は著作権の延長が正しいかといった話ばかりがされ、著作権を書いた本でも近現代にしか触れていないものが多い。

3.  そしてその権利は一種の自然権である。つまり作品を作った人が海賊版によって利益を全部奪われるなんてありえないというわけだ。その保護期間はシュシュの事情と利益衡量して決められる。

 しかし、リチャード・ストールマンはこうした考えをひとりの「ハッカー」(誤解されやすいが、ハッカーは犯罪者ではなく優秀なプログラマーを意味する。)として考えた結果否定するに至った。すなわち次のような感じである。

 

. 著作権は権利ではない。規制である。民法の所有権の三大原則を思い出していただきたい。すなわち処分、収益、使用である。そして売買において所有権が移転するが、次のような例を考えていただきたい。まず書店から買った本、あるいは店で買ったCDを捨てる代わりにそれを転売することは現行法でも許されている。処分である。一方でこういう例はどうだろうか?本を買った人はその本が政治的に重要な本であると気付き、中古で売る代わりにスキャナーでPDF化し、インターネットで一つあたり千円の値段で売却した。そうすると逮捕されるだろう。ここで二つ問題が発生する。まず一つ目は上述の民法問題である。この人が行ったのは単なる収益行為である。何が間違っているのだろうか?どうして所有権が侵害されるのか?これに対して当局がこれまで押し付けてきた答は次のようなものだ。すなわちそんなことをすれば著作者が困るだろう。そして彼には「著作権」があるから、そうした行為は許されないというものだ。これに対しリチャード・ストールマンは最高裁のFox Film Corp. v. Doyal判決を引用して反論する。(なおこの判決は日本ではあまり有名でないらしくあまり情報を得られなかった。更に英米法百選だとかはこんな新しい判決は載せていない。そこでインターネットから引用。)その判旨によれば、「著作権保護の第一の目的はgeneral benefitsの増進にある。著作者への報酬は第二義的なもの」(引用元: http://www.geocities.jp/nob_obinata2004/cases-copyright.htm)とされている。つまり著作権の本質は著作権者の保護ではなく経済発展のためだと最高裁も判示しているとストールマンは言う。だいたい著作権が権利ならそんな簡単に法律で期間を伸ばしたり出来るはずがない。

. 上記の例では政治的な文書の頒布が制限されていた。しかしこうした政治的な文書の制限は昔から有ったことである。中世ヨーロッパでは聖書を勝手に印刷して配ったものは厳しく罰せられたし、ロシアでは帝政期から現代に至るまでコピーや印刷はすべて当局の許可を得なければならなかった。単にこれまでの制限が政治的理由だったものが経済的理由になっただけのことである。

. 著作権は権利じゃないのだから自然権のはずなし。

そしてプログラマーであるストールマンが最も問題視したのは、プログラマーはたいてい企業や大学に雇われる身分であるため彼らの作ったソフトウェアはそうした組織に属することになり、規制でがんじがらめにされることである。(つまり製作者を保護するどころか作ったプログラマーの管理権を制限し、企業に管理権を移すために使われている。)これでは隣人を助けられないとストールマンは言う。

このような経緯の元哲学のもとストールマンGNUプロジェクト及びコピーレフト運動を始めた。このプロジェクトは現在直接的にはLINUXといったOSや、Androidといった携帯用OSを生み出すもとになっている。

最後にフリーソフト運動から現在の著作権問題に言えるであろうことを書く。最近では著作権関連の訴訟がクローズアップされ、法律的流行のようになっているけれども、本来の目的である製作者の保護という観点が見過ごされているのではないか?だからこそ自分のプログラムとして世に発表できるフリーソフトがプログラマーにも受け入れられたのではないかと思える。    

海外有名RPGでのハッキングミニゲームができるサイトを発見

falloutのscienceに振るか迷ったなあ...

 

正直どうやって作ったのかわからない。

プロなのだろうか....

 

ノーベル賞を受賞した山中教授と京都大学の技術開発方針

10月10にやっていたクローズアップ現代で山中教授が面白いことを言っていた。

 

京都大学が研究開発するのは、公的機関である国立大学が特許を取り、それを皆に使ってもらうためだという考えに基づいているという。。

これは逆に言えば民間企業が特許を取ると独占するからいけないと言っているようなものだ。

 

今アメリカなどでは、市場原理主義が医療業界等にも及び、それにともなって技術革新を引き起こす新技術の特許も使用料による金稼ぎの道具となりつつある。

 

山中教授の今回の発言はこうした技術の商業化を暗に批判したものだと思う。

「本来科学技術は公共のためのもので利益をあげるためのものではない。京都大学の研究者は科学の商業化を目論む陰謀を粉砕する。」という京大から企業への宣戦布告なのではないかと、そんな妄想をした。